ー このまま何もしなかったら、島は沈没してしまう -
離島としてのハンディキャップを抱え、過疎、超少子高齢化が深刻化する中、1997年6月に7つの島の有志たちが集まり「このまま何もしなかったら島は沈没してしまう。笠岡の島同士が協力し合って島を再生していこう。」と呼びかけあい、「島をゲンキにする会」を立ち上げた。夜な夜な酒を飲みながら、島をどうしたら元気にできるか・島に何が必要かについて話し合う日々が始まった。
そうした話合いによって、お互いが他の島のことをほとんど知らなかったことが改めて分かる。そこで、「島同士でお互いに知ることから始めよう。訪問し合って島同士で島民みんなが一緒に参加してやれることを何かしよう。」という話になり、合同でのイベント開催を企画することになった。
- ≪島の大運動会≫の誕生 -
その頃までの各島では、島外のつながりは陸地部ばかりで、島同士のつながり・交流がほとんどなかった。そこで7つの島同士のつながり・連携を高めることが、一丸となった島おこしに繋がるとして、7島合同で「島の大運動会」の開催を計画した。
「島の大運動会」は、≪島をひとつに、心はひとつに≫をテーマに、島民が企画提案し、市が事業支援するもので、1998年5月、北木島を会場に第1回が開催された。各島のほとんどの島民たちが北木島に集結し、島を離れ本土に移り住んでいる島出身者なども含め、5,000人もの人たちが参加する盛り上がりとなった。こうして島を想う有志達の気持ちが、翌年に運動会という形で結実し、各島民たちが団結し・競い合い・ふれあい、笠岡諸島全体が燃え上がったイベントとして、参加した大勢の心に刻まれることとなった。
こうした島で生きる若者たちの「島を活性化させよう」という熱い思いで繰り広げられる取り組みは、市に「島の住民が考え、行政が支援し、協働して島おこしを実践していく」という方向の重要性を再認識させるきっかけとなった。
ー 島の大運動会の成果 -
島の大運動会の盛上がりを受けて島の女性たちから「私たち女性もお手伝いするだけでなく、最初の企画から運営まで全般に積極的にかかわりたい」との声が上がるようになる。第1回運動会では男性ばかりが実行委員を務め、男性たちが決めたことを女性たちが裏方で手伝うという形だったため、翌年1999年に開かれた第2回目の大運動会からは、女性たちも実行委員に加わり、競技のことからバザーや昼食のことにいたるまで、企画の段階から積極的に関わった。
こうして女性たちが協力、団結したのがきっかけとなり、1999年5月に女性ネット「笠岡諸島生き活き会」が立ち上がる。その後の生き活き会の女性たちの行動力は目覚ましく、女性目線での数々の取り組みは、2001年1月に笠岡諸島全体の女性を対象に行われたアンケート調査(島の生活、仕事、保健福祉、生きがいなど様々な分野から女性目線の意見を集めた)に繋がり、その調査内容は「笠岡諸島振興計画」(後述)にも大きく反映されることとなった。
- ”人材”というサポートへの転換と≪海援隊≫の誕生 -
また、第3回目の大運動会では島にとって新たな取り組みのきっかけとなる出来事があった。運動会のプログラムとして「島からの主張」が行われ、そこに出場した市長らに対して島民の代表が想いを伝えるというものであった。
「島にはいろいろハンデがあるが、それを何とか克服して島を元気にしていこうと島民は思っている。島には良さ、強みもあり、エネルギーは島はたくさん持っている。けれども、島のみんなのために頑張っている人でも、どうしても日々の生活があって専属ではできない。だから島には、専属で中心になってやる人、事務局になる人が必要なんだ。市は財政投資を島にするよりは、そうした専属で事務局をやるような”人材”を投入してくれた方が非常に効率的で助かる。」
「市は陸から眺めるだけでなく島の人と一緒に汗をかいてサポートして欲しい。私たちが役所に行くのではなく、役所が島に来てくれ。」
当時の市長はこの島民の主張を重く受け止め、島に島民のサポートをする市職員を派遣し、そこで島民と交流する中で声を受け止め、島の力を引き出そうという施策のアイデアを実施に移す事にした。そのアイディアは2001年4月に海や島で活躍する人を応援する部隊ということで「島おこし海援隊」(以下、海援隊)と名付けたチームの編成に繋がった。隊員は島に拠点を置き、島民の1人のようになって島民たちと共に汗を流し島おこしを行っていくというもので、その人選には立候補という形が採られた。
市長は決意を持って手を挙げた3人の隊員に対して特命として「島民になれ。市職員としてではなく島の住民となって働いてくれ」との一言を伝えた。市長直轄でどこの部局にも属さない、上司もいない、予算もない。予算が必要なら、関係課に掛け合えというもので、当時の隊員たちのプレッシャーは相当なものだったと言われている。
- 島づくり意識の高揚。そしてかさおか島づくり海社の結成 -
若者たちによる全島合同の「島の大運動会」が毎年盛大に開かれ、女性たちのネットワークも広がりを見せ、さらに市が島に海援隊を派遣する中で、2002年3月、島民たちと海援隊の隊員が一緒になって、「笠岡諸島振興計画」を策定した。この計画づくりが島民たちの意識を高め、その後、様々な活動を展開し活発化させる契機の一つとなった。
そうして島民たちが島の将来を考え話し合いを進める中で、「笠岡諸島の7島全体を一つの会社組織のようにみなし、島のために働けば何らかの利益が上がるという仕組みを作ろう。利益が上がることで島民たちが積極的に関わるようになり、生きがいも感じられるようになる。そうすれば、島民みんなが生き生きと輝くような島づくりができるのではないか。だから運動会だけでなく、あらゆる島づくりを7島合同でやろう。そのための組織を立ち上げよう。」といった構想が生まれた。
その想いは2002年8月、7島それぞれが特徴を活かしながら島づくりをする島民組織(任意組織)「電脳笠岡ふるさ島づくり海社」の立ち上げに繋がる。組織の体制は、島民全員がメンバーとなり、北木島に統括する本社を置き、各島にはそれぞれ支社を置くという仕組みで、各島支社が島づくりの事業を計画し、それを本社会議で議論して決定するものだった。
事業が決定されると、本社が事業費を支給するが、支社は支給を受けた事業費3割を5年間で本社に返済する仕組みとなっており、収益事業を行い自立していく動機付けとなっている。当初企画の段階では「(島づくり)会社」という表現であったが、市の中から「株式会社ではないのに会社という表現を使っていいのか。ストレートすぎないか。」という意見があり、島民と海援隊が知恵を絞って「海社」と書いて「かいしゃ」と読むように決めた。
その後、2006年9月にNPO法人格を取得し、「特定非営利活動法人かさおか島づくり海社(しまづくりがいしゃ)」と名前も新たにし、発展的に組織編成が行われ、現在の体勢に至っている。
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